初回の車検まで半年を切った今月にやっと走行距離が20,000kmを超えた。
以前から閉まりが悪かった運転席側のアッパーグローブボックス(普通の乗用車だとメータ類があるところ。どんなものか知りたい人はここ(Citroenのサイト)へ)が完全にいかれた。開いたままだと前の視界を少し遮るのだけれど、朝の環七を走りながら押さえるわけにもいかず、そうこうしているうちに気にならなくなった。
その後、近くにいたので、用事を済ませた後にちょうどお昼時のサービスさんにちょっと見ていただいた。案の定、交換が必要だと。
うぅぅ、人生で一番貧乏な今はクルマの修理が一番キツイ。早くパーツが届きませんように。
写真は、店頭にあった現品限りのスタッドレスセット品。ムッシュビバンダムが欠けてしまったけど。185幅だからC4やC5用じゃないのかもしれないが。
以前、「ITC梁山泊5周年記念講演会に参加」という記事を書いたのが 2008年03月10日だから、それから1年と9ヶ月ということになる。幸いにもお誘いをいtだいたので、12月定例会から参加させていただいた。
2002年の発足以来ずっと活動されているメンバーも多く、途中で抜けてしまった私などどのツラ下げてノコノコと・・・という感じだが、落ち着いた中年男性がマジョリティを占めるこの団体の知り合いに多少変わった中年男性がいるということも、多様性のひとつということで、ご勘弁願いたい。
地道な活動をしているITC梁山泊であるが、誰しも等しく年をとるので、多少「血が濃くなっている」感は否めない。忘年会に駆けつけた女性外資銀行員は、いろいろな人がいることが魅力とおっしゃっていて、確かにそれはそうなんだけれど、欲を言えばもっと多様性が欲しい。統率がとれることと相反する場面も考えられなくはないが、意識して外の血を入れる方策も必要な時期じゃないかなあと思う。(というようなことを外部の人間が言うのはヤジになってしまうので、私としては外の血を引き連れて復帰するということを考えなければならないと自分に言っておく。)
それにしても、常時新しい方が入られている同会は、ユニークな存在であることには変わりなく、来年度からはバーチャルで定例会をやるという構想もあるようで、そうなれば今よりもっと多彩なテーマを追うこともできるだろうし、組織運営にも「やる人と受ける人」という二分化傾向を変えていくこともできるかもしれない。
いずれにしても、この会が7年間も続いていて、終わる気配がないことは素晴らしい。これは代表の山崎氏を始めとするリーディングスタッフの力は言うまでもなく、氏の掲げたビジョン、「ITの光が社会の隅々にまで差し込むように」が当初からぶれないからなのだ。
ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー(以下、HBR)の2009年10月号に、「脳の意思決定メカニズム」という記事が掲載されている。HBR2006年1月号(翻訳は同年4月号)に掲載されたものの再掲載だ。脳科学という、最近特に進展が目覚ましい(らしい)分野で、3年前の記事だが、再掲載するだけの価値はある内容だ。少なくとも、私にとってのインパクトの大きさから言って。
脳が大脳新皮質特に前頭前野による知性や論理だけでなく、それが包んでいる脳(それを記事は、「イヌの脳」とか「動物脳」とか「原始的脳回路」と呼んだりしている。専門的には大脳辺縁系というらしい。)が重要な働きをしているという。ここでの言う働きとは、生きるという基本的なことではなく、感情や洞察力だ。
意思決定に感情が影響するというのは、「その通り、それがどうした?と」と誰しも思うだろうが、fMRI(機能的磁気共鳴画像診断装置)が見た"動物脳"がそれを行なっている、そして論理を司る前頭前野に信号を送っているということがわかったのだという。
いくつかの実験の例が紹介されているが、それらが明らかにしてるのは、"動物脳"が重要な役割を果たしていることで、それは場面によっては支配的と言ってもいい。つまり、理屈ではなく感情で行動しているヒトの姿そのものだ。
しかもこの"動物脳"が、理屈ではわからないことにも気づいているのだと。「直感以前」(pre-hunch)という言葉が紹介されているが、細工をしたトランプゲームの実験でその細工に最初に気づくのは"動物脳"であり、それは理屈でわかる(つまり一般的に言う気づく)ずっと前なのだそうだ。しかも、この「直感以前」が気づいたことを前頭前野がうまく受けとれない障害があると、その気づきは"動物脳"の中で止まってしまい、行動に反映できなくなると。
この記事にはいろいろな例やヒトの行動に関する興味深い話が載っている。それらをすべてここに書くわけにはいかないので(だいいち書けない)、一足飛びに私が受けたインパクトが私の考えをどう変えたかを書きたいと思う。
私はこの記事を読んでから、自分が思っていること、感じていることがどちらの脳によるものかを意識するようになった。たとえば、10月13日に書いたイレブンを手放した時、正確には前日の夜にとてもナーバスになっている自分に気づいた。何かきっかけがあれば泣いてしまいそうな気持ちになっていた。ベッドに入ってもそのことばかり考えて眠れない。
その時私は自分の脳に向かって、「動物脳よ、鎮まれ。しかたがないことなのだ。最善の行動として自分で決めたのだから。」と語りかけた。
すると不思議なことに、ナーバスな思いがスッと消えていき、眠ることができた。しかも、次の日に、実際にイレブンを送り出す時にも、送り出した後の日々も、センチメンタルな思いはほとんどわいてこない。思いが薄れたというのとは違う、冷静に考えられている。前頭前野が諸条件を勘案して決定したことに、動物脳が同意した。そんな感じだ。
論理と感情は対等の立場でバランスがとれているのが理想なのだろうが、それがくずれることはよくある。論理が犯すミスを感情の側が激しく責めるという場面。これは私にはよくある。
逆のこともある。感情の側が喜ぶことにヒトは(動物は)積極的になる。それは脳の中でも報酬系と呼ばれる脳回路が活性化している状態らしい。脳の報酬系が喜ぶことは熱心にやると言っていいだろう。ここで驚くのは(ちょっと怖い感じがするのは)、報酬系が存在する脳の”部位が復讐によっても活性化する”ということ。
ある時とった行動が、あるいは、ある時考えていたことが、後で考えてみると(あるいはその時点でも薄々と)、正しくない行動だったということがいくつか思い当たってしまい、それらが報酬系が喜ぶ行動だったのではないかと思った。
何かを考えているときは、自分では論理で考えていると思いがちだけれど、実はそうではないかもしれないということ。もし前頭前野の論理ではなく、動物脳の特定部位の興奮が行動を決めてしまっているような時は、論理の側(あるいは意思の力と言ってもいいのかもしれない)が行動を是正しなければならない。
ただ、これが難しい。
WIRED VISIONの「Apple『Time Capsule』の寿命は17カ月? 「追悼サイト」の主張」という記事にある見渡す限りTime Capsuleの墓標が立っている写真を見て、ああ私のもここに・・・
16日だっただろうか、iMacの画面にTime Capsuleと接続できませんというようなメッセージが出た。なんだろうと思い、玄関のシューズボックスに置いてあるタイムカプセルを見に行くと、なんと、電源が切れている。電源スイッチもないタイムカプセルだから、これはおかしい。電源コードに電気はきているのに。
調べるとすぐにわかった。上の記事を読んで私のタイムカプセルを買ってからの月日を数えてみると、ぴったりじゃないか。18カ月。どうやら電源回りのコンデンサー不良とかで電源部分が壊れるらしい。ここまでぴったりの壊れ方というのもめずらしい。
1TBのディスクと無線LANステーションが動かないのでは困ってしまうので、さっそく銀座のGenius Barに予約を入れて持ち込んだ。20分ほど待たされてからやっと番が来て、やったことは電源コードを換えても電源が入らないという切り分けのみ。あっさり、
「故障ですね」と。ただ、よかったのは、これはAppleに責任のある製品の不具合ということで無償交換となったこと。18カ月回り続けたHDDが新品になるのだからまあよしとするか。基本的にはTime Machineのバックアップ先としてしか使っていなかったし。最近は。
念のためと思ってApple Careの証明書(箱)も持っていったのだが、使わずに終わった。ちなみに、Apple Careに入っている我がiMacの前2年、後3年以内に購入した周辺機器もCareの対象になるとのこと。万一無償交換とならなくても、これでカバーされたわけだ。
というわけで、新品となったタイムカプセルはまた、数十GBのバックアップを始めている。次の18カ月後を心配する必要はないだろうが、2011年4月だ。
昨日は息子が振替休日だというので、平日に西伊豆で釣りを楽しむというぜいたくをした。日曜日の夕方、込み合う上り線を横目に伊豆に突っ走る爽快さったらない。暗くなる頃に山の家に着き、二人で簡単な夕食をとって温泉につかり、明日は4時半起きだ!と早めに床につく。
翌朝は昨夜の雨はあがったものの、風が強く、ボートを積んでいくのはやめにしてまだ暗いうちに出撃する。西伊豆の小さな堤防に到着した時はまだ暗く、寒いが、仕掛けを海に投入してクルマの中で当たりを待つという贅沢というか怠惰な釣り。そのうち日が昇ってきてすこしずつ暖かくなってきた。
予想に反して手こぎボートやカヌーで釣りをする人もちらほら。こんなことならボートを持ってくればよかったね、と言いながらも我慢強く待つとすこしずつ息子が魚を釣りだした。
最終的には私の仕掛けに小さなタコがかかり、なんとかクーラーの片隅に一匹ゲット。息子は、よいサイズのメゴチ、キビレ、カワハギ、そしてなぜかワタリガニをゲット。数は釣れなかったけれど、なかなか多彩なな夕食となった。
さて、タイトルの新記録だが、釣りの話ではなく、その後の帰宅までの時間。食後にささっとお風呂に入り7時半に山の家を出て、真っ暗でほとんど誰も走っていない十国峠から箱根新道を通り、小田原厚木道路 - 東名 - 首都高と乗継いで江東区の自宅駐車場に滑り込んだのが9時。なんと1時間半しかかからなかった。それも、小田原厚木道路は90km/hちょっとでクルーズコントロールを効かせていたので私を追い越したクルマは何台もいたのだ。(東名と首都高では誰にも抜かれなかったけれど)
脱メールの時代に入ったと思い始めたのはずいぶん前になる(拙記事「メールはファックスだった - Part I. -」参照)。メールというものが便利なツールだと認知され、プライベートでも仕事でもかなりの人が使うようになったけれど、コミュニケーション手段は新しいツールが世に現れながら少しずつ変わっていく。
キーボードや携帯電話のキーで文章を入力するという操作ができる人にとって、メールは便利なツールだ。相手からメッセージを受け取るのをインプット、相手にメッセージを届けるのをアウトプットと呼ぶとすると、インプットとアウトプットの比率は50:50から大きくはずれないのではないか。
と書くと、「インプットの方が極端に多い」という人がいるかもしれない。そういう人の大多数はメールマガジンやスパムメールを勘定にいれている人や、仕事の場合ならいろいろなメーリングリストに入っている人かもしれない。
特定の人(通常は一人の相手)への連絡手段としてメールを使う場合以外は、他のコミュニケーション手段を使うことができるし、その方がふさわしい。Wiki、ブログ、SNSといったものだ。
数が多くなってくると、メールマガジンやスパムメールを無くす方向に動き、それらを送る相手はあまり好ましく思われなくなる。同時に、アウトプットをする側も別の手段、メディアに移っていく。郵便と同じ。そのようにして、通信手段は応用範囲が広がった後にその応用範囲が別の通信手段に移っていき、本来の目的のところが残るというような変遷をたどる。
ということでメールはとっくに電話と同じように「連絡」という役目だけに戻っているはずのだ。
しかし、次のコミュニケーション手段への移行には、受話器からキーボードへという道具の持ち替えとは違った壁が存在する。それは、一対一あるいはごく少数の相手とのやりとりではない場面で自らアウトプットするかどうかということだ。
ブログやSNSはさかんになっているけれど、メールを書く人でも次の段階としてブログやSNSでメッセージを書くようになる人はかなり少ないような気がする。コミュニケーションの相手として見ず知らずの人が入ってくる場面では、そうでない場面と比べてメッセージの発信に関する積極性が落ちると思うから。
ということで一足飛びに結論だが、脱メールをうまく進めるためには、よい聞き手、メッセージのよい受け手が必要なのだろう。知らない相手でも、自分のことをやさしく扱ってくれて、言うことを聞いてくれてうなづいてくれる。ちょうどよいポイントで質問したりして、さらにこちらの発言を引き出すというようなことができる受け手が。
私は今までこういう行動を「反応」というとらえ方をしていたので、従属的な行動として考えていたが、実はそうではなくて、主体的な行動として考えるべきなのかもしれない。つまり、メッセージの受け手ということそれ自身を仕事として考えるということ。
伝えられるメッセージの中身に対する応答ということだけではなく、むしろ、伝えるという行為をいかに盛り上げ、高品質なものにしていくかということを役目として認識することが必要なのだ。
たとえは悪いけれど、排水溝から水が流れていかなければうまく水は流れない。だからどんどん吸い込もう。たまには落ち葉や野菜くずや髪の毛で排水溝のふたがつまりそうになることもあるかもしれないが、それを取り除いてまた流れるようにするのも受け手の仕事と考えよう。まちがっても、落ち葉や野菜くずや髪の毛をここに流さないようにしてくださいなどと言わないようにして。
読んだ本をアイテムに載せられなくなって久しい。team voxによると、来月の16日に対策を施すのだという。事情はわからないがずいぶんかかるものだ。
これができないことでなんとなくVOXから遠ざかっていた。
メジャーではないけれど自分としては気に入っていて、洗練されている商品を選ぶ自分にもちょっと「エヘン」というようなところがあり、自分の生活に組み入れようという意識があったのだと思うが、明らかに状況は変わった。
これはちょうど、趣味でパンを焼き始めたお母さんの話と重なる。最初は自分で楽しむためだったが、友人に配ったりして評判がよく、これならできるかもということでパン屋を始めたお母さん、工場で作られるパンとは違う美味しさで店は大繁盛。一人では作れないので人を雇い、店も増やした。次から次へと売れる。お金も儲かる。ここへ来て最初の頃をすっかり忘れたお母さんは工場で効率的に大量にパンを作ることにし、企業家となっていった。
ここからは書くことは不要だろう。誰が間違いということではなく、こうして世の中は動いていく。特に経済原理が幅を利かせる都会では。
冬の間は元気のなかったライムポトスも夏はグングン育つ。植え替えた後に葉っぱが3つくらいしかなかった鉢ももうこんなに。
うまくいくプロジェクトはプロジェクトマネージャが会議をしきったり、顧客とのコミュニケーション役を務めたり、進捗や課題の管理をやっていればなんとか進むし、うまくいかないプロジェクトでもプロジェクトマネージャ氏がいろいろとがんばることで立て直したりできるのだろうが、そういうのは厳密な意味でのプロジェクトマネジメントをやっているわけではなく、いわゆる、「プロジェクトをまわす」行動をしているだけだ。
なぜそう思うかと言うと、プロジェクトマネジメントの教科書に書いてあることをやっているわけではないからだ。SPMの10ステップから見るとなおさらそうだ。計画を作り、その通りにことを運ばせることこそがプロジェクトマネジメントの本質であり、計画と実際との差異の少なさがプロジェクトマネージャの腕の見せ所なのだから。プロジェクトをなんとかまわすというのは、そういう仕事をやっているのであって、それはプロジェクトマネジメントがうまくいかないところを別の仕事でカバーしているにすぎない。
ポトスの葉を見ながらふと思った。プロジェクトマネジメントは、伸びていくポトスの姿を予測し、常時葉の数を数えるようなもの。そういう実に細かな作業を計画から遂行段階まで地道に行なうことなのだ。
どんなに草花の栽培が好きな人も、それを商売にしている人でも、葉の数を予測し、実際に葉の数を毎週数えて記録するというようなことはまずやらないのではないか。そういう誰もやらないような緻密な作業を、草花の栽培をすることを他の人に任せて葉の数を数える人がプロジェクトマネージャなのではないだろうか。
Structured Project Management、略してSPM。
PM界広しといえども、ダブリン発のこれを日本でやっている人はほとんど私一人だ。それだけマイナーなPM方法論と言えるが、きちんと実行できればこれほどパワフルな考え方はない。
いろいろな人に話してきたけれど、今ひとつピンとこないようだった。長い間それで悩んできたけれど、今回は初の試みとしてプロジェクトの例をとりあげて解説することにした。まだ第一話しか掲載していないが、このブログを見てくださっている方にはぜひコメントをいただきたいなあと思う。
http://www.collaboproject.com/SPM.html
(この解説ページの次に、「事例で学ぶSPM」というページがあります。)
この記事を書いた日に、偶然、日経のSNS... read more
on おいしいパンを焼くお母さん